月猫ツーリスト雑記帳

かわいいものを求めて西へ東へ右往左往の記録

東海道を歩こう−22日目

1999年から東海道五十三次を歩いて京都まで行ってみる,ということをやってます.これまでの間に歩いたのは下の表にまとめた通り,安城まで到着してます.

















































































































日付 区間 日付 区間
01日目 1999/04/02 日本橋〜大森町 12日目 2001/08/18 江尻(清水)〜丸子
02日目 1999/09/23 大森町〜保土ヶ谷 13日目 2001/09/23 丸子〜藤枝
03日目 1999/10/09 保土ヶ谷〜藤沢 14日目 2001/10/20 藤枝〜掛川
04日目 2000/05/14 藤沢〜大磯 15日目 2001/11/23 掛川〜見附(磐田)
05日目 2000/06/11 大磯〜小田原 16日目 2002/01/02 見附(磐田)〜天竜川
06日目 2000/06/17 小田原〜箱根湯本 17日目 2002/02/22 天竜川〜舞阪
07日目 2000/08/05 箱根湯本〜元箱根 18日目 2002/03/23 舞阪〜二川
08日目 2001/05/12 元箱根〜三島 19日目 2002/05/25 二川〜藤川
09日目 2001/05/26 三島〜東田子の浦 20日目 2003/04/27 藤川〜安城
10日目 2001/06/19 東田子の浦〜蒲原 21日目 2003/09/27 安城〜桶狭間
11日目 2001/07/20 蒲原〜江尻(清水)

今回は22回目,桶狭間から先を歩きます.

桶狭間,といえば聞こえは良いが,駅名としては「中京競馬場前」である.駅の名前だけでなく外観も競馬関係になっているが,駅舎の改修費用を競馬場が補助したためらしい.と,桶狭間が近くにあるなどということは鉄道だけではまったく判らないのだが,それでも良いことが有って,競馬場が営業している日はこの駅に停車する急行が増える.なので,予定よりは早くこの駅に到着できたのだが,既に時間は14時を過ぎており,歩ける距離は限られそうである.
 そうはいっても桶狭間の古戦場とされる場所は駅から歩いて2分とかからない,旧東海道の1本裏道である.表敬訪問をするのも良いだろう.考えてみると今川義元の領土を通過するのに2年半近くかかったことになる.これが長いのか短いのかはよく判らない.しかも,桶狭間の古戦場はこの場所よりも少し南の田楽狭間のほうが正しいという説が有力である.写真だけとって退散することにした.


 

桶狭間から10分ほど,国道を渡って裏道のようなところに入ると名古屋市に入り,有松というところになる.ここは国道からはずれたことを活かして,町並み保存に力を入れている.といっても保存されているのは江戸というよりも明治時代の豪商の家と考えた方が良いが,今の日本からみるとその差は小さな差となってしまっている.保存されていることの方が珍しいのだ.
今年2月に亡くなられた宮脇俊三先生の著作「室町戦国史紀行」では有松についてタクシーの運転手が「古い家など少ししかないのですよ.お客さんを案内しても,期待外れだと苦情を言われて閉口しますな」とボヤく話が乗っているが,確かに道の両側にずらっと旧家が並ぶ,などということを期待することは出来ないが,これで期待外れだという人は何処に行っても期待外れなのではないか,という程度には残っている.改築に安っぽい新建材を使ってないのも良い.


 


 

有松を過ぎ,名鉄の踏切をわたり15分ほどで鳴海宿の入口を示す常夜灯がある.ここからは鳴海宿であるが,鳴海宿も有松と同様に昔の町並みを保存しようとしているようで,古い感じの家が多い.しかし,新建材の使用が制限されているわけではないらしく,そういう意味では美しさは無い.
その鳴海宿の入口辺りに中島砦があったというので,注意してみてみるが,小川が2つ合流する場所,というだけの場所であり,治水技術の発達した今となっては,なんでもない場所である.しかし,昔は湿地の中の砦,攻めるに固く守りに安い場所であったのであろう.
 

鳴海宿の中間地点辺りで道は左に90度曲がる.これも,城が小高いところにあるので,等高線に合わせて道を造ると城を取り囲むような道になった,というだけのことであり,城下町に良くあるような,防御のために道を複雑にしたものとは違っている.その証拠といっては何だが,鳴海城から連なる岡である千鳥塚の麓,ここは鳴海宿をでてすぐの場所なのだが,には貝塚の跡があった.古代では,東海道は海岸線であったのだ.
鳴海宿の出口にも,入口同様に常夜灯がある.このあと道は笠寺に向かっていくのだが,古代では海の中であったはずの場所であるためであるか,東海道は産業道路となっており,当時の面影はほとんど無い.トラックの行き交う中を,笠寺に向かって歩くことになった.
 


天白川を渡ると笠寺に入る.笠寺で最初に目に入るのは笠寺の一里塚である.かなり大振りの木がY字路になったところに立っており,手前に空間が有ることもあって非常に良い木に見える.それを写真に撮っておこうと思ってカメラを構えたところ道路標識やら電信柱やらがどうやっても被写体にかぶる.木の周りをぐるぐる回って,なんとか撮影するが,やはり道路標識は居すわったままである.これ以上は無理なのであきらめることにした.ものを残しても空間を残さないと,ものの価値は半減すると思うのだが.

写真の撮れない一里塚から少し坂を上ると,今度は笠寺観音が登場する.ここは尾張四観音の一つとか宮本武蔵ゆかりの寺とか,そんなふうに紹介されるらしいが,そんなことよりも山門を撮影しようとすると路上駐車しているトラックが邪魔で仕方がない.何とか撮影するが,どうもさえない.さえないのは自分の腕前なのだが,トラックのせいだということにしておく.
山門をくぐって寺の中に入ると,観音なので色は派手である.本堂もしっかりと赤く塗られている.それよりも,二層の塔のほうがかわいらしいと感じるのだった.
笠寺観音をでると,そこは門前町といった風情で,いい感じだと思ってシャッターを押そうとすると車が邪魔をして横切っていく.どうも今日は思うように写真が撮れない.
 
笠寺の門前町を過ぎ,裏通りと化した旧東海道を歩く.沿道では祭りをやっている.子供神輿は威勢よくわっしょいと掛け声をかけるが,神輿を良くみると台車がついている.掛け声の中で,ごろごろという台車の音がした.見るからに重そうではない.

その後,大きなパチンコ屋の横を通過し,バリアフリーのかけらも無い歩道橋をわたり,ブラザーの工場を見て国道の側道に入ると,熱田,江戸時代の地名でいえば宮宿に入る.とはいえ,名古屋に取り込まれた今となっては,ただの裏の路地でしかない.あまり冴えない通りを歩いていくが,既に時刻は17時が近い.光量が足りない.

そして,やはりバリアフリーのかけらも無い歩道橋をわたり,住宅街を3分ほど歩くと,目の前に海が見えた.七里ノ渡しの跡だ.やぐらが復活していたりして当時の様子を再現しているが,伊勢の国が少しでも見えるかと思って埠頭の先に立つが,見えるのは鉄橋ばかりである.その鉄橋を新幹線が通過していった.何のことはない.今見ている海の上の鉄橋は,今までに何十度となく通過している新幹線のものだったのだ.
  

もう17時も過ぎ,日暮れも近いが,今日は桑名にまでは行ってみようと思う.とりあえずは,最寄り駅の地下鉄伝馬町駅に向かった.

さて,熱田に到着した時点で既に17時になっており,日没も目前となっている.通常ならばここで打ち切ろうと思うところだが,ここで打ち切ってしまうと七里ノ渡しの区間である熱田〜桑名がどうも落ち着かない.次回を桑名からはじめると七里ノ渡しの区間であるを無視したみたいだし,かといってバリアフリーのかけらも無いところをまた熱田まで歩くのも面白くない.今日桑名を歩いても日が暮れた後になるだろうから,次回歩くときに色々な発見を残しておけるだろう,ということもある.

伝馬町の駅から地下鉄を乗り継いで名古屋駅に出て,17時40分発の関西線各駅停車亀山行に乗る.最初のうちは外も少しだけ見えるがだんだん暗くなり,完全に暗くなった18時15分,桑名駅に着いた.ここからは夜の散歩となる.

桑名駅からは大通りを七里ノ渡し跡に向かう.地方都市は夜が早く,未だ18時台なのにシャッターを閉めた店も多い.道幅が広いこともあって路面は暗い.そんな道を15分ほど歩いた後に左に曲がって少し行くと,七里ノ渡し跡に到着する.時刻は18時40分.7里すなわち28キロを2時間弱で通過したことになる.
桑名の七里ノ渡し跡は桑名城と同じ一角に有り,少し先には桑名城らしきものも見えるが,如何せん日没から時間が経っていることもあり,黒の中に白い物体が浮かんでいるようにしか見えない.観光は次回来たときで良いだろう.

来た道を戻って桑名駅に着いたときには19時になっていた.ここからは近鉄に乗って帰途につくのみである.